”御文(おんふみ)に云(いわ)く、たふかたびら(太布帷)、一つ。あによめ(嫂)にて候、女房の、つた(伝)う、と、云云(うんぬん)。又、おはり(尾張)の次郎兵衛殿、六月二十二日に死なせ給う、と、云云。
付法蔵経と申す経は、仏、我が滅後に、我が法を弘むべきやうを、説かせ給いて候。其の中に、我が滅後、正法一千年が間、次第に使をつかはすべし。第一は、迦葉(かしょう)尊者、二十年。第二は、阿難尊者、二十年。第三は、商那和修(しょうわなしゅう)、二十年、乃至(ないし)、第二十三は、師子尊者なり、と、云云。其の第三の商那和修(しょうなわしゅう)と申す人の御事を、仏の説かせ給いて候やうは、商那和修と申すは、衣(きぬ)の名なり。此の人、生れし時、衣(きぬ)をきて、生れて候いき。不思議なりし事なり。六道の中に、地獄道より人道に至るまでは、何(いか)なる人も、始は、あかはだか(赤裸)にて候に、天道こそ衣(きぬ)をきて生れ候へ。たとひ何(いか)なる賢人、聖人も、人に生るるならひは、皆、あかはだかなり。一生補処(いっしょうふしょ)の菩薩すら、尚(なお)、はだかにて生れ給へり。何(い)かに況や、其の外をや。然(しか)るに、此の人は、商那衣(しょうなえ)と申す、いみじき衣(きぬ)にまとはれて、生れさせ給いしが、此の衣は、血もつかず、けが(汚)るる事もなし。譬えば、池に蓮の、をひをし(生鴦)の羽の、水にぬれざるが如し。此の人、次第に生長ありしかば、又、此の衣、次第に広く長くなる。冬はあつく、夏はうすく、春は青く、秋は白くなり候し程に、長者にてをはせしかば、何事も、ともしからず、後には、仏の記しをき給いし事、たがふ事なし。故に、阿難尊者の御弟子(みでし)とならせ給いて、御出家ありしかば、此の衣、変じて、五条・七条・九条、等、の、御袈裟となり候き。かかる不思議の候し故を、仏の説かせ給いしやうは、乃往(ないおう)、過去、阿僧祗劫(あそぎこう)の当初(そのかみ)、此の人は、商人(あきびと)にて有りしが、五百人の商人と共に大海に船を浮べてあきなひをせし程に、海辺に重病の者あり。しかれども、辟支仏(ひゃくしぶつ)と申して貴人なり。先業にてや有りけん、病にかかりて、身、やつれ、心、をぼ(耄)れ、不浄に、まとはれてをはせしを、此の商人、あはれみ奉りて、ねんごろに、看病して、生(いか)しまいらせ、不浄をすすぎすてて、?布(そふ)の商那衣(しょうなえ)を、きせまいらせてありしかば、此(この)聖人、悦びて、願して云く、汝、我を助けて、身の恥を隠せり。此の衣を、今生、後生の衣とせん、とて、やがて、涅槃(ねはん)に入り給いき。此の功徳によりて、過去無量劫の間、人中天上に生れ生るる度(たび)ごとに、此の衣、身に随いて、離るる事なし。乃至(ないし)、今生に、釈迦如来の滅後、第三の付嘱をうけて、商那和修と申す聖人となり、摩突羅(まとら)国の優留荼(うると)山と申す山に、大伽藍(だいがらん)を立てて、無量の衆生を教化して、仏法を弘通(ぐずう)し給いし事、二十年なり。所詮(しょせん)、商那和修比丘の一切のたのしみ、不思議は、皆、彼の衣より、出生(しゅっしょう)せり、と、こそ説かれて候へ。
而(しか)るに、日蓮は、南閻浮提(なんえんぶだい)、日本国と申す国の者なり。此の国は、仏の世に出でさせ給いし国よりは、東に当りて、二十万余里の外、遥(はるか)なる海中の小島なり。而(しか)るに、仏、御入滅ありては、既に、二千二百二十七年なり。月氏・漢土、の人の、此の国の人人を見候へば、此の国の人の、伊豆の大島、奥州の東のえぞ(夷)、なんどを見るやうにこそ候らめ。而(しか)るに、日蓮は、日本国、安房(あわ)の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて、頭(こうべ)をそり、袈裟をきたり。此の度たび)、いかにもして、仏種をも、う(植)へ、生死(しょうじ)を離るる身とならんと思いて候し程に、皆、人の願わせ給う事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に、一の願をおこす。日本国に渡れる処の仏経、並に、菩薩の論と、人師の釈を、習い見候はばや。又、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗、と申す宗ども、あまた有りときく上に、禅宗・浄土宗、と申す宗も候なり。此等の宗宗、枝葉をば、こまかに習はずとも、所詮(しょせん)、肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に、はしりまはり、十二・十六、の年より、三十二に至るまで、二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺、等、の、国国・寺寺、あらあら、習い回り候し程に、一の不思議あり。我れ等が、はかなき心に推するに、仏法は、唯、一味なるべし。いづれも、いづれも、心に入れて、習ひ、願はば、生死を離るべし、とこそ思いて候に、仏法の中に入りて、悪しく習い候ぬれば、謗法(ほうぼう)と申す、大なる穴に堕ち入って、十悪・五逆、と申して、日日・夜夜、に、殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪婬(じゃいん)・妄語(もうご)、等、を、おかす人よりも、五逆罪と申して、父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼、となりて、身には、二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候やうなる、智者・聖人、の一生が間に、一悪をもつくらず、人には、仏のやうにをもはれ、我が身も、又、さながらに、悪道には、よも堕ちじと思う程に、十悪・五逆、の罪人よりも、つよく地獄に堕ちて、阿鼻大城を栖(すみか)として、永く地獄をいでぬ事の候けるぞ。譬えば、人ありて、世にあらんがために、国主につかへ奉る程に、させる、あやまちはなけれども、我心のたらぬ上、身にあやしきふるまひ、かさなるを、猶(なお)、我身にも失(とが)ありともしらず、又、傍輩も不思議ともをもはざるに、后(きさき)等の御事によりて、あやまつ事はなけれども、自然(じねん)に、ふるまひあしく、王なんどに、不思議に見へまいらせぬれば、謀反(むほん)の者よりも、其の失(とが)重し。此の身、とがにかかりぬれば、父母・兄弟・所従、なんども、又、かるからざる失(とが)に、をこなはるる事あり。
謗法と申す罪をば、我れもしらず、人も失(とが)とも思はず、但(ただ)、仏法をならへば、貴しとのみ思いて候程に、此の人も、又、此の人にしたがふ、弟子・檀那、等、も、無間地獄に堕つる事あり。所謂(いわゆる)、勝意比丘・苦岸比丘、なんど申せし僧は、二百五十戒をかたく持ち、三千の威儀を一もかけずありし人なれども、無間大城に堕ちて、出づる期(ご)見へず。又、彼の比丘に近づきて、弟子となり、檀那となる人人、存の外に、大地微塵の数よりも多く、地獄に堕ちて、師とともに苦を受けしぞかし。此の人、後世のために、衆善を修せしより外は、又、心なかりしかども、かかる不祥にあひて候しぞかし。
かかる事を見候しゆへに、あらあら、経論を勘(かんが)へ候へば、日本国の当世こそ、其に似て候へ。代、末になり候へば、世間のまつり事の、あらきにつけても、世の中、あやうかるべき上、此の日本国は、他国にもにず、仏法、弘まりて、国、をさまるべきかと思いて候へば、中中、仏法、弘まりて、世もいたく衰へ、人も多く悪道に堕つべし、と、見へて候。其の故は、日本国は、月氏・漢土、よりも、堂塔等の多き中に、大体は、阿弥陀堂なり。其の上、家ごとに、阿弥陀仏を木像に造り、画像に書き、人毎(ごと)に、六万・八万、等、の、念仏を申す。又、他方を抛(なげ)うちて、西方を願う愚者の眼にも、貴しと見え候上、一切の智人も皆、いみじき事なりと、ほめさせ給う。
又、人王、五十代、桓武天皇の御宇(ぎょう)に、弘法大師と申す聖人、此の国に生れて、漢土より、真言宗と申す、めずらしき法を習い伝へ、平城(へいぜい)・嵯峨(さが)・淳和(じゅんな)、等、の、王の御師となりて、東寺・高野、と申す寺を建立し、又、慈覚大師・智証大師、と申す聖人、同じく、此宗を習い伝えて、叡山・園城寺、に弘通せしかば、日本国の山寺、一同に、此の法を伝へ、今に、真言を行ひ、鈴をふりて、公家・武家、の御祈をし候。所謂(いわゆる)、二階堂・大御堂(おおみどう)・若宮、等、の、別当等、是れなり。是れは、古(いにしえ)も、御たのみある上、当世の国主等、家には、柱(はしら)、天には、日月、河には、橋、海には、船、の如く、御たのみあり。
禅宗と申すは、又、当世の持斎(じさい)等を、建長寺等にあがめさせ給うて、父母よりも重んじ、神よりも御たのみあり。されば、一切の諸人、頭をかたぶけ、手をあさ(叉)ふ。かかる世に、いかなればにや候らん、天変と申して、彗星、長く東西に渡り、地夭(ちよう)と申して、大地をくつがへすこと、大海の船を、大風の時、大波のくつがへすに似たり。大風吹いて、草木をからし、飢饉も年年にゆき、疫病、月月におこり、大旱魃ゆきて、河池・田畠、皆、かはきぬ。此くの如く、三災七難、数十年起りて、民、半分に減じ、残りは、或は、父母、或は、兄弟、或は、妻子にわかれて、歎く声、秋の虫にことならず。家家の、ちり(散)うする事、冬の草木の雪にせめられたるに似たり。是はいかなる事ぞ、と、経論を引き見候へば、仏の言く、法華経と申す経を謗じ、我れを用いざる国あらば、かかる事あるべし、と、仏の記しをかせ給いて候御言(みことば)に、すこしもたがひ候はず。”
(2005.06.30)
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