そこでまず仏典の真理の面にのみ 着目し検討する。


仏教以前では唯物、唯心、唯識、懐疑、瑜伽(ヨガ)、梵我一如、業、刹那生滅、 輪廻、解脱、等。


唯物は有、無(仮)の世界の客体の物質の展開が世界のすべてという真理だから 生命の因果は物質の因果(仮)のみに限定され究めて限られた世界観となる。 そのため生命の差異相がせいぜい物資(遺伝子)レベルまでの説明でおわり、 何故のほとんどの部分が説明できない。 したがって肝心の”私”は無から偶然組織だてられた物質の塊であり、偶然の死とともに物質に 還元され無になるという(本当は無は存在しないからすでにここでこの推測は破綻している)。 すると”私”の善悪は他人に見つからなければ(刑罰を逃れれば)後は気持ちの問題だけで悪いと 思わなければ何人殺そうが生命を破壊しようが死ねば無になるのだから


仏教の小乗の阿含経等では、苦、無常、無我、有、無、空、六識、三法印、四法印、八正道、 四諦、 十二因縁、等、これらは現象世界の関係性の概観を述べ未熟解、方便を含む。次ぎに大乗の解深蜜経では 八識、無自性、三時教、


仏陀の経典といわれるものはあまりにもたくさんあり、しかも たくさんの分派がそれぞれ決まった経典を仏陀の最高の経典としてその ”真理”や修行法を人々に勧めている。しかし仏陀の最高の悟り(真理)がそんなに煩雑に広範に同程度に 説かれるはずはなく、膨大な経典の中には不遜な理由(出世や権力に取り入るために新たに経を作ったり 改竄したり等)で説かれたニセの経典や、真理が説かれても その内容に浅深高低の違いが必ずあるはずで、その中でも仏陀の最高の真理を説いた 最高の経典というのが必ずあり、 それがどれかはそれぞれの経典の経文とその内容にあくまで従い、 私事(我欲)(名誉欲、金銭欲等)で歪んだ勝手な解釈に惑わされず、最善の解釈(仏陀の解釈)に 従いながら十分注意して検証していくことで自ずとわかるはずだと。


さらに生命は物質等を手段として生活(応用)するように 真理をもまた手段として応用する。すなわち生命にとっての真理はどんなに高くとも応用が ともなっていなければ価値を生じないから、生命にとっての最高の真理には必ず最高の応用が 備わっていなければならない。つまり、生活(応用)には必ずその真理(法則)があり、 最高の生活(応用)には必ずその最高の真理(法則)がある(破壊の思想は破壊を生み、 創造の思想は創造を生む。最高の思想は最高の境涯を生む)。 ならばその最高の真理を見つけ出しそれからその最高の応用を導き出す。


それを過去において真摯に的確に推し進めたのが 中国の天台でその業績は竜樹、天親よりも優れている。すなわち膨大な仏典を その内容からその説かれた真理の優劣、説かれた順序の整合性を見つけ出し体系化し法華経が仏陀の 最高最善の悟りとしてその実態を法華経から読み取り、その真理に基づいて仏陀の未来記のとおりに その時代に合った修行法を説いた。その真理とは法華経迹門の方便品の十如是から悟った 理の一念三千であり、その修行法とは同じく法華経迹門の安楽行品から導き出した観念観法の円頓止観の 修行法である。 いずれも法華経迹門の真理、修行法であり、仏陀の付嘱通りの振る舞いで、像法時代の法華経流布を 約束どおり果した姿であった。


さて、中国の天台によって法華経の嘱累品での迹門の付嘱(総付嘱)は 完結されたが、 法華経の神力品での上行菩薩への本門の付嘱(結要付嘱)はどうなっているのか、天台は結要付嘱の文から 五重玄義を導き出し題目の妙法蓮華経を解釈しているが、それ以上は詳しく説かなかった。それは この結要付嘱が未来の 上行菩薩のために与えられたものと熟知していたためで、その証拠に法華文句巻一上では ”後の五百歳遠く妙道に沾(うるお)わん”と未来の本門流布に対する恋慕の情が 認(したた)められている。 それでは天台以後この付嘱の法華経本門が説かれているのか、これから説かれることになるのか、 日蓮の探求がはじまった。