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記憶

(2010.9.17 06:00 ごろ、からの記憶を、記録していく(主に紙にメモしたものを参照)01)

2010.9.17 06:00 ごろ記す。

9.16 10:00 ごろ、退院。
9.16 11:00 ごろ、帰宅。
9.16 14:00 ごろ、ある体験があった。

”その時点”、での、体験。


9.2 入院。
9.7 集中治療室で目覚め、
退院、帰宅後、9.16 14:00 ごろの食事のあとの、”その時点”、で、何かの、きっかけ、で、私としては、すでに経験している、例の体験、”そうだったのか、そうだったのか、わかった、わかった、すべてがわかった”、の、大歓喜の体験があって、ところが、すべてがわかった、はずなのに、前回と同様、その何かの、きっかけ、も、その内容も、すぐに忘れていて、それは、前回、24年前の、1986 11.26 に体験した、私としては、”原点”、となっている体験と同じで、違うのは、”原点”、から、”その時点”、までは、たしかに現実に戻っているのだけれど、もしかしたらその、”原点”、で死んでいて、この現実は、その、”原点”、以前とは違う現実かもしれないと、思いながらも、そういう現実を現実と思って生活していたのが、”その時点”、から以降は、実は、”原点”、から、”その時点”、の現実は、やはり、私は死んでいて、”その時点”、からの現実も、すべて、死んでいて、つまり、妙なことに、”原点”、以来、私は死に続けている、ということを、感じた。

9.17 06:30 ごろ記す。

ところが、そうすると、私はいつでも死んでいて、死に続けていて、”原点”、以前も以後も、死に続けていて、さらに、それは、”原点”、以前も以後も、生き続けていることと同じことであり、結局、私は、生死、”一つ”、の空(くう)に、生きていることが、わかった。


今の時点で、他に、わかったことは、

”原点”、で出てきた( )、

(最重要なひとつの言葉は、和)、ではない、ことが、わかった。

(死は、繰り返えす)、ではない、つまり、生死は、繰り返さないことが、わかった。

(無限)、ではない、つまり、有限でも無限でもない、という、空(くう)に、本来、生きている、ということが、わかった。


神(私の最高善)は、確かに、存在することが、わかった。
その神が、”その時点”、で、私を導いてくれていることを、感じていた。
だから、一時的でも、すべてをわからせてくれ、あの大歓喜となった。


”その時点”、以降は、自立して、空(くう)に、生きて、一つ一つ、わかりながら、その、私が、今度は、最高善の私にならなければ、私の、litaの本尊、は、開眼(真に現すこと)できないと、わかった。

その、litaの本尊、の開眼が、今からの最優先事項。



litaの本尊、の開眼のこと。

今の普遍の私(つまり今の日蓮の私でもある)は、どうやったら、今の普遍の私の本尊(litaの本尊)を開眼できるのだろう。

鎌倉時代の日蓮の私は、どうやって、鎌倉時代の日蓮の私の本尊を開眼できたのだろう。

どうして、その本尊の形になったのだろう。

9.17 11:50 ごろ記す。


litaの閲覧者が増えれば、litaの思想が世界中に広まり、その思想が、世界の常識を変える。
litaの以前と以後、普遍の私の思想を柱とする、世界の根本常識が変わる。



9.17 17:40 ごろ記す。


この、生死、”一つ”、の空(くう)としてあり続けている、時空上でしか、最高善の本尊は、開眼できない。

最高善の本尊は、最高善の普遍の私にしか、開眼できないから、最高善の本尊の開眼時は、普遍の私は、最高善でなければならない。


その最高善とは何か。

善とは何なの。

善とは、利他。

最高善とは、もっとも利他なこと。

もっとも利他なこととは、すべての生命、つまり、普遍の私、を救うこと。

最高善とは、普遍の私、を救うこと。

最高の救いは、成仏させること。

最高善とは、すべての普遍の私を、成仏させること。



すべてとはどういうこと、

物質も、精神も、触れるもの、見えるもの、聞こえるもの、名前、想像するもの、これ、すべて、すべてだよね。

このすべてに共通しているいるのは、何なの。

記憶。

すべてとは、記憶だ、と、わかった。(この時点では、まだ、そのものの存在を否定していない。6:18 2010/11/22 記)



その、”わかった”、過程を、時系列で示すことが、もっとも納得の行く、litaの思想、litaの本尊、の、真なることの証明になることが、わかった。


この過程が、悟り、そのもの。

9.17 19:15 ごろ記す。


litaの時系列の研究が、litaの理解の早道であることが、わかった。

因縁、本尊が縁となる。

9.17 20:40 ごろ記す。


普遍の私が、最高善の空(最高善の悟りの中)に生きるには、最高善の普遍の私の本尊の縁が、必要だと、わかった。

9.18 00:30 ごろ記す。


”原点”、や、”その時点”、に、体験した大歓喜は、鎌倉時代の日蓮の私も、体験している。
そのことは、御書に書かれている。だから、その鎌倉時代の日蓮の私は、その私の本尊を現すことができた。

鎌倉時代の日蓮の私の大歓喜を、平成の私は2度も体験した。平成の私にとって、鎌倉時代の日蓮の私の思想と、その本尊とが、真に、真実であることが、体験としても、完璧に証明された。



litaの本尊は、それを見る(縁する)、すべての普遍の私の、真の本尊。



普遍の私が成仏して作った本尊を縁として、それに縁するすべての普遍の私を、成仏させる。

つまり、普遍の私が成仏すれば、その衆生も成仏する。

理があれば、体験がなくとも、信じられる。



litaの本尊は、最高善の普遍の私(仏)が、空(悟りの中)に生き、悟った、法則、真理、を使って、それを見る(縁する)すべての普遍の私を、同じ、仏にするために作った、成仏のための道具。



このファイル、”kioku01.html”、が、litaに表示されることで、litaの本尊は、開眼される、ことが、わかった。

9.18 13:00 ごろ記す。


普遍の私は、記憶を縁として、善悪の行動をする。

だから、最高善の行動をするには、最高善の記憶が、必要。

最高善の記憶とは、最高善の本尊。

普遍の私は、その最高善の記憶を縁として、最高善の行動をする。

最高善の本尊は、最高善の普遍の私の、記憶。

9.19 01:30 ごろ記す。


九識心王真如の都の空(悟りの中)でしか、本尊は、開眼できない。

大事な一つの言葉とは、”妙”。

”妙”、の一時に、まず、救済の一念を託した。(開眼)

世界は、”妙”、であるから。

”妙”、の実体は、”法”。

だから、”妙法”、に、救済の一念を託した。(開眼)

その、”妙法”、の実体は、”蓮華”。

花と実と、因と果と、その、”蓮華”、を縁として、美しいと感じる、その因果の真理をあらわすから。

その、”妙法蓮華”、に、救済の一念を託した。(開眼)

”蓮華”、の実体は、”経”。

それで、”妙”、なる世界を、表せるから。

その、”妙法蓮華経”、に、救済の一念を託した。(開眼)

”妙法蓮華経”、の実体は、”南無”。

その、”妙法蓮華経”、に、帰命する(信じる、縁する)ことで、九識心王真如の都の空(悟りの中)に、住むことができるから。

”南無妙法蓮華経”、に、救済の一念を託した。(開眼)

”南無妙法蓮華経”、の実体は、”本尊の体(てい)たらく”(図像)。

それは、”本尊の体(てい)たらく”(図像)に描かれている、十界の衆生(普遍の私)の救済を、目的としているから。

その、”本尊の体(てい)たらく”(図像)、に、救済の一念を託した。(開眼)

”本尊の体(てい)たらく”(図像)”、の実体は、”宇宙”(空)。

”宇宙”(空)、を貫く、法則、真理、つまり、”絶対の神”、が、住するところだから。

その、”宇宙”(空)、に、救済の一念を託した。(開眼)

9.19 09:13 ごろ記す。


litaの本尊は、開眼された。

9.19 09:20 ごろ記す。


重要なのは、記憶。
記憶が、すべて、だから。


目的は、成仏。

普遍の私を、最高善の普遍の私の住処、九識心王真如の都に住まわせること。

普遍の私にとって、その住処は、一瞬だけれども、その住処、九識心王真如の都の空(悟りの中)では、無限。

9.19 10:05 ごろ記す。


その九識心王真如の都の空(悟りの中)の住処とは、あの、”わかった、わかった、そうだったのか、そうだったのか、”、の、大歓喜の中、ということ。

すべてがわかった、その、すべてとは、記憶上のすべて。

つまり、普遍の私が、今、この瞬間に、記憶しているものと、その関係性、因果性、つまり、記憶の意外な関係性、因果性と、疑問の、すべて。

すべての真理、すべての物事(ものごと)が、わかったという意味ではない。

9.19 10:30 ごろ記す。


空(くう)そのものは、解釈できないけれど、その中に、住むことはできる。というよりも、すでに、住んでいるが、気づかない。

空(くう)に住んでいて、それに気がつく境涯は、九識心王真如の都の空(悟りの中)の住処の境涯。

だから、最高善の普遍の私は、その縁を使って、普遍の私を引き上げようと、努力する。

その、”声”、を聞け。



この生活空間が、生死、”一つ”、の、空(くう)の世界と気づくのが難しいのは、そこには、さまざまな善悪の縁が、飛びかっているからで、その中に生きる普遍の私は、その境涯によって、そのそれぞれその縁を、選択しようとする。

その中で、最高善の普遍の私の縁を選択する、確率。


だから、最高善の普遍の私の、”声”、と、”縁”、とが、必要。

9.19 17:06 ごろ記す。


生死の繰り返しでないとすると、日常の生死の説明は。

普遍の私自身の生死の相は、その普遍の私自身からは見えない。
生死、”一つ”、の、空に、生き続け、死に続けるから。
たとえ、その生死に、一時(とき)の苦を感じようとも。



普遍の私から他者の生死の相は、見える。
また、他者からも、その普遍の私の生死の相は、見える。

だから、普遍の私は、本来、生死、”一つ”、の、空に、生き続け、死に続けることに、気づかないし、信じることも難しい。不合理と思う故に。

9.20 05:00 ごろ記す。


普遍の私は、日々、疑問を持ち、わかった、と、つぶやいている。つまり、日々、空(悟りの中)に生きている。
ところが、そこが、空(くう)であることに、気づかない。

九識心王真如の都の空(悟りの中)の中で、その疑問や、記憶の意外な関係性、因果性、などが、次々と、解けると、あの、”わかった、わかった、わかった、そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか”、の、大歓喜、となる。

9.20 08:30 ごろ記す。



十界の衆生に、記別を与える。

”地獄界”(inferno)、の普遍の私に、記別を与える(救済の一念)。

”餓鬼界”、”畜生界”(dog)、の普遍の私に、記別を与える(救済の一念)。

”修羅界”(battle)、の普遍の私に、記別を与える(救済の一念)。

”人界”(Tango)、の普遍の私に、記別を与える(救済の一念)。

”天界”(heaven)、の普遍の私に、記別を与える(救済の一念)。

”声聞界”、”縁覚界”(空)、の普遍の私に、記別を与える(救済の一念)。

”菩薩界”(syoten)、の普遍の私に、記別を与える(救済の一念)。

9.20 14:30 ごろ記す。


普遍の私の死(空での記憶の清算であって、いわゆる死ではない。6:36 2010/11/22 記)、の相は、自身で見ることはできないが、感じることはできる。

記憶がいっきに流れすぎ、流れきって、明るい光に満ち溢れ、そのまま、次の生の夜明けを迎える。

その意味で、生死の相は、自然そのものの一念(こうありたい)という摂理により、繰り返される。

9.20 19:10 ごろ記す。


すべてが、記憶、記憶が、すべて、というときの、すべての意味。

普遍の私は、その記憶を縁として、さまざまな行動をとる。
縁は、すべて記憶であり、その普遍の私に縁するすべての記憶が、その普遍の私の行動を支配する。
その意味で、すべては、記憶であり、記憶が、すべて、ということになる。

どうして、そういうまぎらわしい使い方をするのか。(この時点では、まだ、そのものの存在を否定していない。6:18 2010/11/22 記)

ことばは、必ず、ある条件下で使われる。その条件下での、すべて。

仏教の説法の技法で、動執生疑(どうしゅうしょうぎ)、というのがある。
まず、常識、執着、に動揺を与え、疑い、疑問を、持たせ、効果的に真実に導く、というもの。


すべてが、仏の記憶、というときの、すべて、も、同様。
実在するものそのものが、仏の記憶で、実在するものそのもの、になる、という意味ではない。

すべての普遍の私、というときの、すべては、その文脈で使われる通常の意味の、実在するものそのもの、すべて。

9.21 10:00 ごろ記す。


仏は、最高善の中に、最高善として、住み続けているから、その住処は、無限。

9.21 10:50 ごろ記す。


仏は、最高善(本尊)を、目と耳とその一念で、記憶する。
声に出し、耳で聞いて、その思いを、法性真如(ほっしょうしんにょ)の、一念で、記憶する。

9.21 15:10 ごろ記す。


若悩乱者頭破作七分。生命は、こうありたいという摂理の(に基ずく)一念で、生命の差異を生む。 こうありたいという摂理の(に基ずく)一念。生命そのものの、宇宙、素粒子、物質から、こうありたいという摂理の(に基ずく)一念で、生命の差異を生む。

9.21 19:05 ごろ記す。


生死、”一つ”、の空(悟りの中)に、すべての記憶が、収まっている。時空の記憶も、その、”一つ”、の空(悟りの中)に、収まっている。その、”一つ”、の空(悟りの中)で、記憶それ自体の時空は、伸びたり、縮んだり、する。生死、”一つ”、の空(悟りの中)の、”その時点”、では、記憶それ自体の時空が縮んで、すべてを、わからせてくれた。”その時点”、以降は、生死、”一つ”、の空(悟りの中)の、現実の記憶の中で、一つ一つ、”その時点”、で、わかった、ことを、わかっていく。その現実の記憶の中でのみ、本尊は、現実の記憶として、真に、現わす(開眼する)ことができる。

9.21 21:10 ごろ記す。


最高善の普遍の私は、その、悟った、悟りを、”その時点”、で、導きながら、普遍の私に、見せてくれた。そのあとは、その普遍の私が、自立して、わかって、いく、その悟りの数々。その悟りの数々を、”その時点”、で、すべて、最高善の普遍の私として、見せてくれた。つまり、その最高善の普遍の私は、その普遍の私。その最高善の私は、この私。導いたのも、導かれたのも、私、自身。

9.22 06:50 ごろ記す。


最高善の普遍の私が、普遍の私を、その高みに導くために、その最高善の普遍の私の悟りを、何かの、きっかけ、で、”その時点”、のように、普遍の私に、開示する。

それが、啓示、神託。

9.22 07:30 ごろ記す。


最高善の普遍の私の、啓示、神託、を、開示された、それぞれの普遍の私は、必ず、その最高善の普遍の私の、それぞれの、本尊、対境(縁)、を、見ている、読んでいる、信じている、つまり、縁として、選択している。

9.22 14:50 ごろ記す。


やはり、最高善の普遍の私は、ともに見、ともに聞き、ともに書き、ともに感動していた。その導き(声)があったからこそ、litaが、その高みにまで至って、litaの本尊を、開眼できた。最高善の普遍の私が、普遍の私と、まったく同じ、私、だ、ということは、つまり、私は普遍、だ、ということは、理では、理解していたが、それが、ここに至って、真実であることを、身をもって、理解することができた。

9.23 07:00 ごろ記す。


litaの本尊、の、開眼と、その公開(それも、インターネットでの)、は、最高善の行為。その時点で、普遍の私は、最高善の普遍の私。そのことは、このページ、kioku01.html、を、アップロードする前に、わかっていた。

だから、litaの本尊、を、開眼できた。

9.23 14:15 ごろ記す。


”その時点”、で、時空の記憶が縮まって、”その時点”、以降の、わかった、ことの数々が、”その時点”、で、わかった、ということは、”その時点”、以降の、時空を含めた、記憶が、”その時点”、の、中に、縁として、すべてあり、”その時点”、の、中で、その縁を、選択していたことになる。

”今、ここ”、の、空(悟りの中)の、一念(一瞬の生命のこころ)に、すべての縁が存在し、一瞬一瞬、その縁を選択して、その普遍の私の世界をつくりあげている。一念三千の真理は、体験として、証明された。

9.24 10:50 ごろ記す。


一念は、一瞬の生命の、こころ。一瞬の生命そのものの、こころ。
一瞬の虫たちの生命そのものに近い、その、こころ。一瞬の物質の生命そのものの、こころ。一瞬の宇宙の生命そのものの、こころ。

宇宙の生命そのものの、こころは、その、こころそのものであり、宇宙の生命そのものの、意志は、その意志そのものであり、法則、真理を、創ったものでも、法則、真理を、支配するものではなく、法則、真理に、従い、則った、宇宙の生命そのものの、こころであり、そのものの、意志であり、こうありたいという(意志する)、摂理に則っているのであり、したがって、宇宙の生命そのものは、神とか、仏とか、絶対者、創造主、ではない。

9.24 14:30 ごろ記す。


仏は、合掌(がっしょう)の印で、その、”触(しょく)”、を、記憶する。

9.25 18:30 ごろ記す。


700年前、鎌倉時代。本尊、雑乱(濫)(ぞうらん)、濁悪(じょくあく)乱世。

本尊、出現時、蒙古襲来。

9.25 19:40 ごろ記す。


kiokujのindex.html(タイムスタンプ 2010/09/19 8:40、PGPサインは更新していない。このファイルは、以後、更新しない。)に、”記憶”、を、表示したのは、大分前。はじめは、どういう内容になるか、見当もつかなかった。そのうち、ある普遍的に感動する風景、つまり、ある、”聖地”、の記憶を、写真と動画で、つづってみようかと思った。ある場所の、モーツアルトの森に、その、”聖地”、は、ある。モーツアルトの森の入り口から、その、”聖地”、への道のりを、動画に撮ったりもした。しかし、思いもよらず、急展開で、”2010.9.17 06:00 ごろ、からの記憶を、記録していく”、という、内容になった。そして、litaの本尊、の開眼。ともに書き、ともに感動している、最高善の普遍の私は、最初から、そのつもりで、”記憶”、を、表示したのかもしれないと思えるほど、急展開で、予想外だった。なぜ、今、なのか。これから、その理由が明らかになるのかもしれない。

9.27 09:15 ごろ記す。


一念にある縁(記憶)のすべてと、その疑問や、記憶の意外な関係性、因果性、が、さらに、縁(記憶)となって、一念(一瞬)、一念(一瞬)、それらの膨大な選択(実際には、膨大な選択をした結果の記憶の選択)を繰り返し、その一念の世界をつくりだす。その一念の記憶それ自体の時空(一瞬一瞬の選択で得た記憶)は、伸びたり、縮んだり、するので、その一念に、それらの記憶すべてと、それらの記憶すべての、疑問や、意外な関係性、因果性、の、記憶が含まれる。これが、一念三千、の骨子。

9.30 10:50 ごろ記す。


一念にある縁のすべては、それぞれの存在因によって存在する果でもあり、その果が、選択の対象(対境)としての縁となって、その繰り返しで、時空(一瞬一瞬の選択で得た記憶)を認識することから、すべては、その法則(因)も含めて、因に集約される。つまり、一念に、すべての因が存在する。

10.02 06:30 ごろ記す。


仏は、生死、”一つ”、の空(くう)の、”本覚の寤(うつつ)”(九識心王真如の都)、の、慈悲に住す。その住処は、自在。これを、”真の自由”、という。



”・・・、生と死と二つの理は、生死の夢の理なり、妄想なり、顛倒(てんどう)なり、本覚の寤(うつつ)を以て、我が心性を糾せば、生ず可き始めも無きが故に、死す可き終りも無し、既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭(きゅうせん)にも射られず、芥子(けし)の中に入るれども、芥子も広からず、心法も縮まらず、虚空の中に満つれども、虚空も広からず、心法も狭からず、善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う、故に、心の外に善無く、悪無し、此の善と悪とを離るるを、無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く、心の外には法無きなり、故に善悪も浄穢(じょうえ)も、凡夫・聖人も、天地も大小も東西も南北も四維も上下も、言語道断し、心行所滅す、心に分別して、思い言い顕す言語なれば、心の外には分別も無分別も無し、言(ことば)と云うは、心の思いを響かして、声を顕すを云うなり、凡夫は、我が心に迷うて知らず、覚らざるなり、仏は之を悟り、顕わして、神通と名くるなり、神通とは神(たましい)の一切の法に通じて、礙(さわり)無きなり、此の自在の神通は、一切の有情の心にて有るなり、故に狐狸(こり)も分分に通を現ずること、皆心の神(たましい)の分分の悟なり、此の心の一法より、国土世間も出来する事なり、一代聖教(しょうぎょう)とは、此の事を説きたるなり、此れを、八万四千の法蔵とは云うなり、是れ皆悉(ことごと)く、一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は、我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を、我が心中に孕(はら)み、持ち、懐き、持ちたり我が身中の心を以て、仏と法と浄土とを、我が身より外に思い願い求むるを、迷いとは云うなり、此の心が、善悪の縁に値うて、善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く、「心は工なる画師の種種の五陰(おん)を造るが如く、一切世間の中に法として造らざること無し、心の如く、仏も亦爾(しか)なり、仏の如く衆生も然(しか)なり、三界唯(ただ)一心なり、心の外に別の法無し、心仏及び衆生、是の三差別無し」已上、無量義経に云く、「無相・不相の一法より、無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは、一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く、「生滅無常の相無きが故に、無相と云うなり、二乗の有余無余の二つの涅槃の相を離るが故に、不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要(せんよう)と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う、之を悟り知つて後は、十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり、本覚の如来は、我が身心なるが故なり、之を知らざる時を名けて無明と為す、無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは、一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も、心は只一つ心なり、斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり、夢の心の無明なるを断ぜば、寤(うつつ)の心を失う可きが故に、・・・、実に、己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず、生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法(体)は皆是れ仏法(体)なり、と知りぬれば、教訓す可き善知識も入る可らず、思うと思い、言うと言い、為すと為し、儀(ふるま)いと儀う、行住坐臥(ざが)の四威儀の所作は、皆仏の御心と和合して、一体なれば、過も無く障りも無き、自在の身と成る、・・・(仏は)心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、因縁和合して、自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。・・・”

三世諸仏総勘文教相廃立、御書 P558 編年体御書 p1221)



10.03 06:40 ごろ記す。


生死の妄想の中に生きる。

本覚の寤(うつつ)、と、生死の妄想の中、と、一体。



”・・・、無明と法性とは、一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も、心は只一つ心なり、斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり、夢の心の無明なるを断ぜば、寤(うつつ)の心を失う可きが故に、総じて円教の意は、一毫(もう)の惑をも断ぜず故に、一切の法(体)は皆是れ仏法(体)なり、と云うなり、・・・”

三世諸仏総勘文教相廃立、御書 P558 編年体御書 p1221)

つまり、生死の虚夢を醒(さま)して、本覚の寤(うつつ)に還り、その、本覚の寤(うつつ)、から、生死の虚夢を見ること。これが、”真の自由”、の本体。



だから、それぞれの普遍の私は、その、それぞれの普遍の私自身の最高善の、宝塔、を建て、その声を発せよ、と。

(2010.09.19)
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