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”無”は”何も存在しないこと”と定義されるから、”無”には ”無”もまた存在しない。 従って、”存在しない””無”から何も生じないし、存在するものは、”存在しない””無”にはならない。 従って、”無”は存在の根拠にはなり得ない。


”無”から何も生じない以上、 すでに世界が存在しているので、 最初は”無”でないことになる。最初が”有”であるならば、すでに存在する”有”は、またさらに”有”を生じないから、 ”始り”がない。故に、”有”の最初はない。 また、”有”は、”存在しない””無”にならないから、”終わり”もない。


すなわち、存在するものは、 ”始り”もなければ ”終わり”もない。


存在(有)は、智恵の”光”によって、影(無)を伴って認識される。 すなわち、”光”(智恵)のあたるところを、”有”といい、”光”(智恵)のあたらないところを、”無”という。 この”無”も、また、”光”(智恵)の変化(強弱、方向等)によって、”有”になり得る。


”光”(智恵)による”影”が無””であると、解釈された”無”を、 ”空”という。また、”影”がなければ、存在(有)は認識されないので、”有”もまた”空”である。すなわち、 ”空”なるものを、”光”(智恵)によって、”有””無”と認識(解釈)しているのが、生命(人間)である。


そして、”空”もまた、”光”(智恵)によって、 ”認識されないが、あるもの、または、ありうるもの”と、解釈されるので、”空”である。


そして、この”空”、”有”、”無”、を”光”(智恵)によって、”空” であると 解釈する”私”もまた”空”であり、解釈する”私”の”智恵”(光)もまた”空”である。そして、 この「すべてが”空”である”」と解釈する当の常住の”私”を、”中”という。


”有”と”無”とは、”空”を”光”(智恵)によって、 解釈した変化相なので、”仮”といわれ、この”仮”(有無)と、”空””中”とを合わせて理解しないと、 ”始り”も、”終わり”も、”無限”も、”一瞬”も、生命ソノモノ(生命全体)の部分的な見方で”終始”することになる。


どんなに長い時間、 どんなに大きな空間も、無限大から見れば、無限に短い一瞬、無限に小さな空間であり、どんなに短い時間、 どんなに小さな空間も、無限小から見れば、無限に長い時間、無限に大きな空間である。


有と無だけで世界を理解しようとするのは、 丁度、ゼノンの矢が的に当たらない(矢は止まっている)矛盾を、数学的に解釈しようとするのと同様で、 文字どおり、”的外れ”になる。勝手に的との間を無限に分割しておいて(一瞬一瞬に分割しておいて)、 それを忘れて、自然の法則に矛盾すると思い込んで、その矛盾を自然の法則で解こうとするが、 実際は、自然の法則に当てはまらないことを前提にしているので(自然は、飛んでいる矢を、 的との間を無限に分割して飛ばさないし、一瞬一瞬分割して飛ばさない)、文字どおり、”的外れ”になる。


小義の生命ソノモノ(空)を、智恵(これも空)によって、小義の 現実の生命(仮)と解釈する存在を、小義の”私”(中)といい、これを仏教では、”空”、”仮”、”中”の 生命の”三諦”という。


”我思う故に我あり”の”私”、”実存”の ”私”は、この”空”、”仮”、”中”の生命の”三諦”の解釈から完結に向う。


(1998.1.22)

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